東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
所謂、感動を煽るプロモーションをするような本とか映画は大嫌いだ。ステロタイプな天邪鬼だの、思春期並みにひねくれているだのと思われていても、やたら情緒に訴えたり、涙を誘うようなコピーとかは見るだけで反吐が出る。
 感動とか涙という枕詞が付けば、綺麗なイメージを持ってしまうが、んなもん’イっちゃう’のとか射精と変わらんだろう?、と思ったりする。勿論、気持ち良いことは大好きなんだけどね(^^;。
 ひとしきり、泣いて喚けば、そりゃストレスも解消するだろう・・・。
 例えば、男子諸君なら判ると思うが、10代の青少年が気恥ずかしさ満開でアダルトビデオを借りたり、お姉ちゃんの裸を想像して悶々としてるようなのは、どことなく後ろめたさがある光景だろう。一方で、おばちゃんやOLが泣きたくて、ハンカチ握り締めたりして、70年代の大映ドラマばりに、大げさな演出の韓流ドラマを堂々と嬉々として見るのと、いったいどう違いがあるんだろうか?
 いや、綺麗なOLのお姉ちゃん自体は大好きだよ(違。
 けどね、涙と鼻水は精液より偉いのか?分泌物には変わりあるまいに。
 どっちにしたって、やるこたあ、最終的に粘膜の擦り付け合いだろうに。
 癒しだのスピリチュアルだの何だの、偉そうに言ったってさ。肉体的にカタルシスを感じるのは、ドラマ見て’感動’するのも、エッチなビデオ観てオナニーして感じるオーガズムも一緒じゃん?、と。
 で、青春真っ盛りな若造の様な弁舌を振った前置きはさておき、齢30を越えて、恥は感じなくなった代わりに、俗世の欲も少しづつ、失いつつあるオサーンだったりするのだが、目一杯、顔面華厳の滝になってしまいました(w。
 リリー・フランキー氏のイラストとコラムは凄い。小学生ばりに執着するウ○コや、チ○コ、それにオ○ニーといったゲッスいトピックの合間に、やおら突き立てるような人の生の感情や立ち振る舞いの機微を見逃さない表現が大好きだ。
 まるで呼吸もままならない人間が、地べたから世界を見上げた時に見るような醜悪さと、故に垣間見える綺麗な風景の様な描写がとても好きだ。汚物や吐瀉物、季節の移ろい、下世話なネタ、そして人の感情の地平が同じだから、説得力がある。
 本書は、リリー・フランキー氏と、どうしようもないヤクザな’オトン’、そして、さながら「青春の門」ばりに豪放磊落で優しくて、そんな九州の格好良い女の’オカン’との関係のお話である。ほんでもって、それは、少し、歪でいて、そして真っ当な親子の自伝だ。
 あくまで主題は’オカン’と’僕’なのだけど、’オトン’との関係が少し、自分とのシンクロニシティを感じたりしたせいか、余計に惹き込まれた。

たった一度、数秒の射精で、親子関係は未来永劫に約束されるが、「家族」とは生活という息苦しい土壌の上で、時間を掛け、努力を重ね、時には自らを滅して培うものである。
しかし、その賜物も、たった一度、数秒の諍いで、いとも簡単に崩壊してしまうことがある。
「親子」は足し算だが「家族」は足すだけでなく、引き算もある。

 ガンで’オカン’は東京タワーに昇ることなく、逝ってしまう。オカンの遺骨をガリガリ噛んでしまう描写も含めて、胸が締め付けられるのだけど、何故か、読後感は凄く清涼な気分になった。
 編集者のあざとさばかりが目に付いた’セ○チュー’とか、往年のホイチョイが仕掛けた!?と思わんばかりの’電○男’とか、はたまたハリウッド映画のCMで「今年、一番、感動しました!!」ってな素人の仕込み風のインタビューでも何でもいいけど、儲け方としては、正直に羨ましい限りだが、受け手としては物凄く寒々しい気分になった。
 なんだか、見渡すと、まるで感動のコングロマリットじゃないの?臆面も無く、私はお金を払って、堂々と泣きますみたいなさ。作品そのものの良し悪しとは次元は別としてさ。
 極上の喜びも、怒気満面の怒りも、嗚咽を漏らすような、いや、それどころか涙も出ないような悲しみも、天国に居るかのような安楽もひっくるめてさ。
 みっともない涙や汚い涎や汗や色んな分泌物、それに臭気が伴わない、お手軽な感情発露を繰り返してると、痛みや喜びを感じる感覚が麻痺してしまうんじゃなかろうか?
 現実場面の心を突き動かされる場面や、本書の様な喉元にナイフを付き付けられるような表現に出会うと、つとに感じる、なので凄く嬉しい気分になる。