コップ半分しか無い現実、半分もある現実

観て来ました・・・。四の五の言うな、観ろってな感じでしょうか。14話×30分の尺から1時間半になったが為にすっ飛ばされたエピソード、心理描写はありますが、大筋としては何一つ変わってない。
 にも関わらず、群像劇として大衆娯楽として存分に成立しています。今日は二回見ましたが、後何回もスクリーンで楽しめると思うくらいにテンポ感があり、お話としても判り易く、楽しい作品になっていました。
 かって何回となく観た筈の20年前の絵が大半を占める1時間半なのに、この新鮮さに圧倒と驚愕です。
 某V系のナルな楽曲が全てをぶち壊すと思いきや、映像世界の中で完璧に成立していたことに感動、ツギハギ映画だと揶揄されていたことも全くの杞憂に終わりました。
 新作カットや音響、お化粧直しの効果はあったと思う、けどね、与えられているリソースはほぼ、元の素材しか無い状態で、かくも印象が変わるのかが不思議で仕方が無かったんだけど、ほら、あれだ・・・。
 余韻とアルコールに浸っていて、ふと思った。手垢の付きまくった表現なんだろうけど、現実(=20年前に放送された作品)はいかんともし難いが、それに対峙する受け手(=自分)のモノの見方は変えることが出来得るというシンプルなことです。
 コップ半分の水はコップ半分でしか無いのは明確な事実ですが、それを半分しか無い、半分もある、と捉えるのは自分のモノの見方、絶対的な主観でしかありません。
 泣こうが喚こうが、厳然とした事実は一向に変わりませんが、見方を変えることは時に可能です(勿論、自分のキャパシティを超えると、まま狂うしか無いですが・・・)。
 自身が他人を羨み、嫉み、置かれた状況に一喜一憂する狭量な人間であることは自覚していますが、その現実を認知し、頭で考え、そこから隔たりのある行動とバランスを取り、もがき足掻くということをしばらく放棄していたところから修正していかねば、と。
 (追記)で、TV版のリアルタイム世代としてはね、Z大好きなのよ、でも、ウザい(身内にかなーり敵を作ったけど)。
 小学生時代には明確に言語化出来なかったけど、そのウザさって、後の80年代後半から90年代以降を予見していたところもあるけど、内面吐露とかヒステリックでエキセントリックな自己を出しても良い羞恥心の欠如。
 「それいけココロジー」とか「ソフィーの世界」みたいな、心理学ブームでも、オウムでも幸福の科学でも何でもいいけど新興宗教が取り沙汰されてた時期でもそうだけど、他人とは違う自分の差異を認めるのは良いにしても、全肯定してしまった時の気恥ずかしさの欠如。自己探求もいいけどさ、他人に晒すの止めてくんない?みたいなね。
 群像劇なのに皆、それを発露しまくってて劇トータルとして成り立たない取っ散かり振りの居心地の悪さが1年間続いた気がする。
 それが尺を短くして、メリハリを付けて、俯瞰させるだけで、こうも群像劇として成り立つんだなあ、と。ジェットコースター張りにエレベーションするカミーユの痛さや、逡巡しブレまくるシャアも、頭でっかちなエマも、干渉しまくりで口やかましいファも、汚名’挽回’なジェリドも、作品中の事実は何一つ変わらないのに、ウザく無いし、すんなりと受け止めることが出来る。
 これがね、3部まで全編、このクオリティだったら、もうそりゃ凄いよ、御大ってな、ワクワクな気分ですよ。
 うー、10月まで待つの?もちっと早く続きを見せて下さい。